2025年5月16日金曜日

なぜこの本にたどりついたか?

自己啓発書を読む、古典を読めと言われる、古典を読む、各地域の哲学に詳しくなる、しかし結局なにもよく分からない、いつのまにかこれまでの哲学を総なめした哲学書らしきものを見つける。これが、「意識と本質」井筒俊彦であった。


なまじ英語をつまんでいい気になっているときに、この本の著者である井筒俊彦は数十か国語以上を自由にし、人類史の哲学書等に該当する書物を原著で読んでいると知る。衝撃を受ける。


そして、本を早速購入し読み始める。わからない。難しい。読破出来る気がしない。


何とか読み終えるのに1年程度かかる。なぜなら全然読み進められないからだ。中国四書やイスラームのフーヒーヤとマーヒーヤの話が冒頭から突っ込まれ、これを知らない哲学者はいないと言ってくる。なんだなんだ。


しかし、がまんして読み進めた甲斐もあった。この本が言いたいこと、それに対して論じるための根拠というものが書かれているのが、なんと72ページ目。普通の人は、この人は何のためにこんなことを言っているのかわからないまま、読み進めることになる。冒頭に本質という言葉の問題提起をしているが、それすらページをめくれば忘れてしまうほどの難易度だ。


この本の言いたいことは、深層意識領域にも本質がある、、ということでそれを論じるための根拠を3つの型という呼び方で72ページ目に記載がある。しかし、私はかなりの部分でついていけない。


それでも読み進めると、ほとんど文章だけであった本書に縦長の図が出てくる。それが井筒俊彦の提唱する意識の構造である。人の本質とは何か?を考えていったときに、意識であるという確認があった私は、この意識の構造をみて深い納得を得た。ことさら人の意識ということに関する理解はこれだけでよい、とも思えるほどだ。


本質、という言葉が好きだと朝ノートで気づかされ、人の本質に気が向いて、意識の生まれ方に興味が湧く。脳科学やスピリチュアル的なものも俯瞰するが、一時的な納得感はあるが、どうやら長続きしないし、実感としてかっちりこない。


本書は違う、私の感覚に対する理解が間違っているのではないかと思うほど、残酷な事実を突きつけてくる。私個人の感覚vs人類史の哲学、といった感じだ。勝てる気がしない、つまり私にはなにもわかっていない領域があるということ。絶対視していた自分の感覚に対する理解に疑問が生まれてしまった。


うれしいものはうれしい、たのしいものはたのしい。それはそうだろう。しかし、うれしいだろうと思ってやったことが実際はあまりうれしくない。ここに違和感があった。


本書を読んで理解した。人間の意識の奥の奥は常にダイナミック、動的。おなじことをしても、違う感覚が襲ってきて当たり前。おなじことをしても、返ってくる感覚が違う。理系の私には衝撃的な事実であった。そうか、これが人間味というものかと深い納得感があった。


例えると、好きなアイスクリームを買っておく。好きなことだからだ。しかし、これは致命的な誤りで、実際好きなアイスクリームを食べてもあまりいい気持ちがしない時がある。これが違和感であったが、本書を読んで理解した。人の気持ちはもともとこのような形で想定通りに訪れないのだと。


解き放たれた気がする、一方で皆がこの調子では社会秩序が形成されないことも気づく(物事が計画通り進まない)。しかし、人の意識というものが理解できれば、その欠点もわかる。うまく利用できるようにする、それだけで全然違う。



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