2025年5月5日月曜日

アイデアノートが通用しない

 

  • 課題を特定する、対策を立案する、状況から最善の対策を実行する。およそ仕事ではこのような意思決定の連続で、朝ノートやそれに付随するアイデアノートに対してもこのような態度で臨んでいたが、教育のアイデアノートの成果が散々であったように、アイデアでは解決できない課題がある。それは、本質的に課題が定まらないのに、課題と題して対策を打とうとすることだ。

  • つまり、課題として言語化すると、その課題の本質が死んでしまうことを意味する。たとえば、毎日機嫌よく過ごすにはどうすればいいか?という朝ノートの問いに対し、好きなことをする、リラックスをする、食べ飲みすると書いたとする。違和感しかない。つまり、解決にならない。

  • この時期、本当につらかった。課題を特定して、解決できなければ対策の質が悪い、そのためのアイデアが不足していると信じていた私は、この違和感が信じられなかった。しかし、朝ノートの蓄積は語ってくる。似たような気持ちが、いつも浮かんでいる。それに対して対策しているのに、なぜいつも同じような気持ちが生じているのかと。

  • 今ここに集中しろだとか、ヨガだとか、中村天風氏の著書だろうが、フロイトだろうが、孔子だろうが、中国四書だろうが一時的なその場しのぎで、散々生まれてくるこの違和感が拭いきれずにいた。あたまでは物事は解決している。しかし、精神がそれを否定している気がしてならない。いったいなんなのだろうか?

  • あとでまとめているが、これに対する最初の答えは井筒俊彦氏の「意識の本質」で記述されている。ここでは触れない。

  • このとき、意識の次元転換がはじまっていたようだ。これは朝ノートの質的変化の大転換ともいうべき変化で、朝起きてノートを書く行為というものはこれまであったように、気持ちを整理し、課題を見つめ、対策を打つ。その結果、生活の質が向上するというものであったが、これまで機能していた朝ノートがただ違和感だけを生む産物と変わり果てていた。

  • つまり、課題を解決し、生活の質を改善するという朝ノートの書き方を超える必要があった。生活の質は改善しなくて良いのだ。ここに辿り着くのにこんなに時間と労力がかかるのかとがっかりした。

  • どういうことかというと、やればよくなるのはわかっている。じゃあやるか!とならないのだ。めんどうくさいのではない。おもしろくないのだ。味わいがそこにないのだ。朝9時までに机の掃除をする、やれば机はきれいになる。ただ、そこに新鮮味やありがたみ、うれしい感情が湧かないのだ。事態は改善するが、そこに心は無く、ただ作業的に良くなっただけなのだ。

  • 「意識と本質」を読む、物事には本質が2種類ある。人間だれしもが共通で認識できる言葉でがんじがらめにされた本質と、およそ他者には理解されえないその人独自の、本居宣長が語った「もののあはれ」に根差す本質。わたしはこれまで前者の本質しか世の中に存在していないと思っていた。そんなことはないと、少なくともおよそ200年以上前に看破されていたのだ。

  • こうして、「意識と本質」に魅了された私は、物事の2面性、表に出ている本質と隠れている本質の、矛盾する双方を同時に視るということが、朝ノートを進めるうえで肝要だと確信した。

  • するとどうだろう、朝ノートは変質した。頭に浮かぶ課題を書かなくなった、代わりに心に浮かぶ心象と体に生じる微かな感覚を言語化するようになった。そこには、俗にいう世の中の問題は出てこない。詩的で、超個人的な言葉がそこにならび、その言葉自体は私の体に特別な感覚を生じさせる。

  • 挙げるべきではないが例を挙げると、生きる時間→質・密度→力強さ。生きている時間→じぶんの時間→すっきり、解放。などといった感じだ。正直、言葉の間に論理関係が無く、言葉の間をつなぐのは私の体の感覚なので、他人に理解できるものではないと思っている。

  • ただ、何だろう。じぶんを大切にしている気がするし、なにより実行後にあたたかい感覚、確信という気持ちが生まれていると思う。そもそも、俗にいう社会問題や他人軸が入ってこないので、そういった意味で特異なことをやっていると思うし、こうやった深さというものが他人が作り出す社会の基準や通説を共感しながらも冷たい目で見ることができるものだと思う。まだ発展途上。

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