さて、今度はどんな指摘を受けているのかなあとおもむろに査読結果を開きます。すると、
「大変興味深い事柄を含みます」
おっと、なんだこのポジティブなメッセージは!と若干喜んだのもつかの間
「論文の定義や説明が不明瞭な箇所が多く、論文としての有用性を判断できません」
うわー、そうですか。修正回数は10回以上、先生方にも何度も査読をしていただいたのですが、論文の説明が不明瞭で、判定できないようです。
そして、査読者の指摘事項をざっと眺めると、その数20個以上。これを見た瞬間、回答が大変そうだ。。と思いました。
一旦、冷静に査読者からの指摘を受け止めるために、2,3日間間をおいて、査読者からの指摘を解読していくと、ものすごく、きちんと論文を読んでくれていることが分かります。査読のレベルが非常に高い。だからゆえに、言葉の定義や説明が不明瞭だと、根拠を持って指摘をしてくれているわけです。
査読者からの指摘は至極真っ当で、たしかに、説明文が不明瞭。あいまい。不十分だと思い知らされました。。論文投稿時は自分のレベルの限界点で、問題ない、と思って投稿していますので、これはこれでショックなのですが、その上からさらに指摘を受けると、査読者のレベルの高さに感心、脱帽の状態です。自分が自信を持って書いた文章が、まだまだ伝わらない、不明瞭なレベルなのだと。この文章とこの文章の論理が不明瞭、この言葉の説明がなく、意味が理解できない。なぜこのように考えたのかが分からない、などなど。掲載を前提とした指摘が多いと、担当の先生方はおっしゃっておりました。
確かに、二人の査読者から、指摘の冒頭に、Mandanory change(修正必須)だが、内容は興味深い内容を含むと答えていただきました。この点については、担当の先生方も、ポジティブに受け止めて良い、とコメントをいただきました。
さて、とはいってもまだ掲載が決まったわけでもなく、この後の査読コメントへの回答文の良し悪しで、掲載可否が決まります。回答文など書いたことありません。一つ一つ丁寧に、査読者のコメントを読み、その回答文を作成し、論文を修正していきます。この作業がまた、非常に神経を使う作業で、コメントを読み誤ったら見当はずれの答えをしてしまい、もう一度、やりとりを行うことになるか、はたまた、「リジェクト(返送)」となってしまうかもしれません。なぜなら、判定の2回目は、掲載か返送だからです。つまり、回答文は論文を作成した時と同じように、作成しなければなりません。
回答文の作成ですが、1か月かかりました。
まず、わたしなりに回答文を作成し、論文の修正を行うのですが、担当の先生方からは、「この回答は査読者の質問に答えていない」「回答文があいまい、不明瞭。他分野の人でもわかるような丁寧な説明文が必要」とのコメントを受け、何度も回答文を作成し直しました。
なんか、やはり、日本語の運用能力が低いのでしょうね。読み取る力、考えを論理的に書く能力。いずれもいまの自分には足りていないのでしょう。だからこそ、査読者・先生方から「わからない。わからない。」と言われるわけです。これがゆえに致命的、逆の見方をすれば、この論文を書く力をつけるのが、いまの自分に足りない能力なのだということです。
この回答文のやりとりをしている最中ですが、なぜか、非常にうれしくなりました。なぜかというと、ほぼ一人っきりで練り上げた論文のアイデアを、先生方と一緒に論文の形にし、おそらくこの分野の第一人者の方に、ここまで、細部まで読み込んでいただき、至極真っ当な指摘を受ける。その結果、論文の品質がみるみる上がっていく。先生方とのやりとりで、自分の日本語運用能力が上がっていく、という実感があったからです。これは、博士課程に入って、研究をして、論文を書いて、査読を受けるといったプロセスを踏まないと、感じられない、心の奥からくるほのかなうれしさです。なんかこういうの、前にもあったなあ。
さて、どうにかして回答文を作り上げました。指摘項目が多いため、20ページ以上の回答文です。一つの指摘を一つのページに書いているので、余白は多いです。いったんこれで文句なし。回答文を投稿して、あとは運を天に任せるのみです。
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