- やらなきゃな、思うことを書き出したら優先度をつけて高い順に処理するのは効率の面では有効だが、これを休日の朝ノートでやろうとすると弊害が出ることがある。優先度の軸に悩むのだ。
- そもそも仕事続きの土曜日の頭でこれをやろうとすると、どうしても似たような感覚で決めてしまう。つまりは納期が短い順、根本解決が見込める順、緊急で重要な順などだが、そこには自由闊達な精神は存在せず機械的な処理が行われる。
- 休日朝一番の清々しい朝にこれではいけない。もっとじぶんを解き放って自由に思考し、行動するべきだと思うのだが、そう反省するのみで朝ノートの書き方が普段の仕事のtodo listに偏ってしまうのは致し方ないのかもしれない。
- こうなるともはや朝ノートはある意味トレーニングで、書いては消したり、書いたtodolistをみてげんなりしたり、挙句の果てには書きっぱなしで実行しないことが常となったりと、もはやメチャクチャになってくる。しかしこれこそが、土壌を耕すという行為に近かったと感じる。
- やることリストに精神が反発しているようだ。やらなきゃいけないこともその優先度も朝ノートで把握できるようになった。それがなんだと。おもしろくないだろうと。物事を効率的に進められる、それ自体が全てではないと言ってくる。todolistの書き出しとその優先度付けを一年近く行ってくると、もはや紙はメモで、そこまで労せず、慣れて簡単にできるようになる。それをいつまで続けるのだと言ってくる。
- 視点が先を見据えるようになる。これから30代を本格的に迎え、このままでいいのかと疑問と焦りが湧いてくる。すると、やるべきことを書き出すtodolistが、少し先を見据えた将来計画に変貌したがっているようだ。
- この先自分がどうあるべきかとどうなりたいかの整理が始まった。やるべきことではなく、やりたいことを書くようになり、ありたい姿を書くようになった。毎週毎週、朝ノートに似たようなことを書くという現象が続き、どうやらこれがじぶんの本質的な興味だと気づくようになった。
- 具体的には、これまであまり他人に誇れるようなステータスがなかったので私は何か欲しいと思っていたようだ。そこで、じぶんの置かれた状況と力量からぎりいけるんじゃないかということで、検討を重ねた結果、英検一級を目指すことにした。同時に工学博士も取得したいと思っていた。
- 朝ノートの変質で言えば、将来計画にじぶんの視点が移った際に、ゴリゴリの海外技術者とガンガンにやり合うじぶんの姿をイメージしたものが多かった。理路整然と相手を追い詰めて自分の欲しい結論に合意させる、こんなシーンがよくあって、一方会食では穏やかに団欒しているシーンもよく浮かんだ。これは文章ではなく、下手すぎて他人には見せられないような図、絵となっていた。
- 実際のところこのままでも良いのだが、何かしら自身の根拠が欲しいという微かな気持ちがあることを、朝ノートの将来計画の繰り返しの書き出しで気づくようになった。英語資格で登りつめたいという気持ちと技術者としての看板を持たねばという気持ちが醸成していったようだ。
- ノートには、英検一級を目指してみる、と書いてある。最初はそこまで本気ではなかったようだ。工学博士もチャンスがあったら、、と書いてある。書き初めはこうだったのだが、いつのまにか日付や計画や追加され、日を追う毎に具体的な計画となっていった。こうなると自分はすでにやる気で、todolistの内容はこれらを取得するために細かい学習計画へと変貌していった。
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