2025年5月5日月曜日

乱読

 

  • 自分がぶつかっている壁は、以前に誰かがぶつかった壁で、他人の経験からこれらの解決策が得られるはずだ。個別課題が書かれたアイデアシートには、乱読の結果、本のエッセンスを残すようにした。

  • 例えば、問題解決の方法という課題に対して初めから自分で考えるのではなく、とりあえず関連する書物を集めて、読んで、エッセンスをアイデアノートに書き溜める。これは自分の考えではない一種のデータベースになるため、ケータイのメモ帳にも打ち込んだ。出先で時間があるときに眺めるためだ。

  • 課題解決力を向上するという点に関して読んだ本といえば、原因と結果の法則、イシューからはじめよ、0秒思考、7つの習慣などの凡そYouTubeで概要が知れる有名な本ばかりで、結局思考術とかいう言葉でまとめられるのだが、同じようなことを手を変え品を変え言ってきているという認識を得るのにはかなりの時間とお金がかかったように思う。

  • しかし、これにはそれなりに意味があったと思う。なぜなら、目の前の課題を解決するために、よそからアイデアを持ってくる、、ということが頭に入っていたので、どこかしらにヒントがあると思っていたのだが、結局は最後の最後でマッチしない。自分の置かれた状況と自分の実力が著者と違うのだ。

  • そのため、同じ内容を異なる読み手に伝えるために、同じテーマに関する様々なトーンの本を読むということは必要だと思う。極端な例では、岩波文庫の菜根譚をいきなり読んでもいいが、子ども向けの菜根譚の方が、最初は読んでいて楽しかった。

  • そうこうしているうちに、朝ノートで抽出した課題を専門的に検討するアイデアノートには、自分がこれはと思った本の知識が集まった。これ以上読んでも混乱するだけで、エッセンスは揃ったと感じるところまで来た。

  • 一例を示すと子どもの教育に関することだ。子どものステージに合わせて様々な著書を読んだが、結局わかったことは、本なんか読んでないで子どもと時を過ごせということだ。つまり、子どもを見ることが優先であって、教育に関する本を読むのは子どもが寝てからか、一緒にいない時でいい。本を読んだ知識で子どもと接しても、色々と浅いので、子どもからすれば急にこんなこと言い出して何があったのか?くらいしか思わないだろう。

  • つまり、教育にはそれを語るに必要な深さが必要で、それは子どもをどのくらいの深度で見てきたのかが問われてしまう。難関大学に入れようが、一流スポーツ選手の育て方を真似しようが、脳科学に基づいた教育を施そうが、モンテッソーリだろうが、外から持ってきた教育法を私は悉く活かせなかった。なぜならそれを実践する実力が私になく、私自身が教育に対して徹底的に浅いのだ。継続ができないし、本に書いてある一辺倒のやり方しかできず、子どもに合わせて調整ができない。

  • じぶんの実力と置かれた環境を考え、子どもの特性を見て、どの程度の環境をいつまで準備してやれるのか?子どもに限界を伝える必要はないが、親は現実を冷徹に見つめる。そうしないと、その子のことも、じぶんのことも、これから起こる得るだろうこともはっきりせず、なにを求めてなにをしているのかに確信が持てない。それでは努力の方向が絞れず、体験が深みへと向かっていかない。

  • アイデアノートの教育を例として挙げたが、他のアイデアノートも辿り着く場所は似ている。つまり、著書のエッセンスを集めたが、「読書について」や本多静六氏の著書でもあるように、「自分自身で考え抜いた知識は他者の知識に勝る」や、「自分の置かれた状況で考え直す」ということだ。これが深みにつながる。そうなのだが、そのレベルに私の実力が至るまでには、このような乱読による他者の模倣の限界を知り得るようにならないと、実力不足でこの言葉の意味がわからない。自分よりも優れた人間の言うことだから正しい、かどうかを自分で確認することが肝要だが、それをしなかった。エッセンスのパズル合わせで解決策が出ると思っていた。ことさら対人間になるとこれがうまくいかない。

  • 結果的に教育のアイデアノートの成果は無かったと思う、余計なことをしただけだったと思う。それよりも習い事の送迎だったり、食事を作ったり、テストの点数について相談したりだとか自分にとってのあたりまえを継続する方が我が子の教育に対するアイデアが浮かびやすい。これは将来に向けてあれやこれやというのではなく、子どもの代わりに子どもが感じたことを言語化してやり、子どもが感じたことを世界に発信する手助けだ。そうやってごまかしの効かない気持ちが現れた時、自我が確認され、自分で道を見つけて進んでいくように思う。

  • この気づきを得る中で、いくら考えても解決しない課題があるということが見えてきた。一旦教育のアイデアノートに整理したが、また朝ノートに戻ってきた。課題の設定からやり直しするのが相当という気持ちになったからだ。それは教育の対象を自分を含めた人間に拡大することであり、ただそれは人間意識の根本理解という果てしないお題であった。

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