2025年5月16日金曜日

なぜこの本にたどりついたか?

自己啓発書を読む、古典を読めと言われる、古典を読む、各地域の哲学に詳しくなる、しかし結局なにもよく分からない、いつのまにかこれまでの哲学を総なめした哲学書らしきものを見つける。これが、「意識と本質」井筒俊彦であった。


なまじ英語をつまんでいい気になっているときに、この本の著者である井筒俊彦は数十か国語以上を自由にし、人類史の哲学書等に該当する書物を原著で読んでいると知る。衝撃を受ける。


そして、本を早速購入し読み始める。わからない。難しい。読破出来る気がしない。


何とか読み終えるのに1年程度かかる。なぜなら全然読み進められないからだ。中国四書やイスラームのフーヒーヤとマーヒーヤの話が冒頭から突っ込まれ、これを知らない哲学者はいないと言ってくる。なんだなんだ。


しかし、がまんして読み進めた甲斐もあった。この本が言いたいこと、それに対して論じるための根拠というものが書かれているのが、なんと72ページ目。普通の人は、この人は何のためにこんなことを言っているのかわからないまま、読み進めることになる。冒頭に本質という言葉の問題提起をしているが、それすらページをめくれば忘れてしまうほどの難易度だ。


この本の言いたいことは、深層意識領域にも本質がある、、ということでそれを論じるための根拠を3つの型という呼び方で72ページ目に記載がある。しかし、私はかなりの部分でついていけない。


それでも読み進めると、ほとんど文章だけであった本書に縦長の図が出てくる。それが井筒俊彦の提唱する意識の構造である。人の本質とは何か?を考えていったときに、意識であるという確認があった私は、この意識の構造をみて深い納得を得た。ことさら人の意識ということに関する理解はこれだけでよい、とも思えるほどだ。


本質、という言葉が好きだと朝ノートで気づかされ、人の本質に気が向いて、意識の生まれ方に興味が湧く。脳科学やスピリチュアル的なものも俯瞰するが、一時的な納得感はあるが、どうやら長続きしないし、実感としてかっちりこない。


本書は違う、私の感覚に対する理解が間違っているのではないかと思うほど、残酷な事実を突きつけてくる。私個人の感覚vs人類史の哲学、といった感じだ。勝てる気がしない、つまり私にはなにもわかっていない領域があるということ。絶対視していた自分の感覚に対する理解に疑問が生まれてしまった。


うれしいものはうれしい、たのしいものはたのしい。それはそうだろう。しかし、うれしいだろうと思ってやったことが実際はあまりうれしくない。ここに違和感があった。


本書を読んで理解した。人間の意識の奥の奥は常にダイナミック、動的。おなじことをしても、違う感覚が襲ってきて当たり前。おなじことをしても、返ってくる感覚が違う。理系の私には衝撃的な事実であった。そうか、これが人間味というものかと深い納得感があった。


例えると、好きなアイスクリームを買っておく。好きなことだからだ。しかし、これは致命的な誤りで、実際好きなアイスクリームを食べてもあまりいい気持ちがしない時がある。これが違和感であったが、本書を読んで理解した。人の気持ちはもともとこのような形で想定通りに訪れないのだと。


解き放たれた気がする、一方で皆がこの調子では社会秩序が形成されないことも気づく(物事が計画通り進まない)。しかし、人の意識というものが理解できれば、その欠点もわかる。うまく利用できるようにする、それだけで全然違う。



2025年5月5日月曜日

アイデアノートが通用しない

 

  • 課題を特定する、対策を立案する、状況から最善の対策を実行する。およそ仕事ではこのような意思決定の連続で、朝ノートやそれに付随するアイデアノートに対してもこのような態度で臨んでいたが、教育のアイデアノートの成果が散々であったように、アイデアでは解決できない課題がある。それは、本質的に課題が定まらないのに、課題と題して対策を打とうとすることだ。

  • つまり、課題として言語化すると、その課題の本質が死んでしまうことを意味する。たとえば、毎日機嫌よく過ごすにはどうすればいいか?という朝ノートの問いに対し、好きなことをする、リラックスをする、食べ飲みすると書いたとする。違和感しかない。つまり、解決にならない。

  • この時期、本当につらかった。課題を特定して、解決できなければ対策の質が悪い、そのためのアイデアが不足していると信じていた私は、この違和感が信じられなかった。しかし、朝ノートの蓄積は語ってくる。似たような気持ちが、いつも浮かんでいる。それに対して対策しているのに、なぜいつも同じような気持ちが生じているのかと。

  • 今ここに集中しろだとか、ヨガだとか、中村天風氏の著書だろうが、フロイトだろうが、孔子だろうが、中国四書だろうが一時的なその場しのぎで、散々生まれてくるこの違和感が拭いきれずにいた。あたまでは物事は解決している。しかし、精神がそれを否定している気がしてならない。いったいなんなのだろうか?

  • あとでまとめているが、これに対する最初の答えは井筒俊彦氏の「意識の本質」で記述されている。ここでは触れない。

  • このとき、意識の次元転換がはじまっていたようだ。これは朝ノートの質的変化の大転換ともいうべき変化で、朝起きてノートを書く行為というものはこれまであったように、気持ちを整理し、課題を見つめ、対策を打つ。その結果、生活の質が向上するというものであったが、これまで機能していた朝ノートがただ違和感だけを生む産物と変わり果てていた。

  • つまり、課題を解決し、生活の質を改善するという朝ノートの書き方を超える必要があった。生活の質は改善しなくて良いのだ。ここに辿り着くのにこんなに時間と労力がかかるのかとがっかりした。

  • どういうことかというと、やればよくなるのはわかっている。じゃあやるか!とならないのだ。めんどうくさいのではない。おもしろくないのだ。味わいがそこにないのだ。朝9時までに机の掃除をする、やれば机はきれいになる。ただ、そこに新鮮味やありがたみ、うれしい感情が湧かないのだ。事態は改善するが、そこに心は無く、ただ作業的に良くなっただけなのだ。

  • 「意識と本質」を読む、物事には本質が2種類ある。人間だれしもが共通で認識できる言葉でがんじがらめにされた本質と、およそ他者には理解されえないその人独自の、本居宣長が語った「もののあはれ」に根差す本質。わたしはこれまで前者の本質しか世の中に存在していないと思っていた。そんなことはないと、少なくともおよそ200年以上前に看破されていたのだ。

  • こうして、「意識と本質」に魅了された私は、物事の2面性、表に出ている本質と隠れている本質の、矛盾する双方を同時に視るということが、朝ノートを進めるうえで肝要だと確信した。

  • するとどうだろう、朝ノートは変質した。頭に浮かぶ課題を書かなくなった、代わりに心に浮かぶ心象と体に生じる微かな感覚を言語化するようになった。そこには、俗にいう世の中の問題は出てこない。詩的で、超個人的な言葉がそこにならび、その言葉自体は私の体に特別な感覚を生じさせる。

  • 挙げるべきではないが例を挙げると、生きる時間→質・密度→力強さ。生きている時間→じぶんの時間→すっきり、解放。などといった感じだ。正直、言葉の間に論理関係が無く、言葉の間をつなぐのは私の体の感覚なので、他人に理解できるものではないと思っている。

  • ただ、何だろう。じぶんを大切にしている気がするし、なにより実行後にあたたかい感覚、確信という気持ちが生まれていると思う。そもそも、俗にいう社会問題や他人軸が入ってこないので、そういった意味で特異なことをやっていると思うし、こうやった深さというものが他人が作り出す社会の基準や通説を共感しながらも冷たい目で見ることができるものだと思う。まだ発展途上。

乱読

 

  • 自分がぶつかっている壁は、以前に誰かがぶつかった壁で、他人の経験からこれらの解決策が得られるはずだ。個別課題が書かれたアイデアシートには、乱読の結果、本のエッセンスを残すようにした。

  • 例えば、問題解決の方法という課題に対して初めから自分で考えるのではなく、とりあえず関連する書物を集めて、読んで、エッセンスをアイデアノートに書き溜める。これは自分の考えではない一種のデータベースになるため、ケータイのメモ帳にも打ち込んだ。出先で時間があるときに眺めるためだ。

  • 課題解決力を向上するという点に関して読んだ本といえば、原因と結果の法則、イシューからはじめよ、0秒思考、7つの習慣などの凡そYouTubeで概要が知れる有名な本ばかりで、結局思考術とかいう言葉でまとめられるのだが、同じようなことを手を変え品を変え言ってきているという認識を得るのにはかなりの時間とお金がかかったように思う。

  • しかし、これにはそれなりに意味があったと思う。なぜなら、目の前の課題を解決するために、よそからアイデアを持ってくる、、ということが頭に入っていたので、どこかしらにヒントがあると思っていたのだが、結局は最後の最後でマッチしない。自分の置かれた状況と自分の実力が著者と違うのだ。

  • そのため、同じ内容を異なる読み手に伝えるために、同じテーマに関する様々なトーンの本を読むということは必要だと思う。極端な例では、岩波文庫の菜根譚をいきなり読んでもいいが、子ども向けの菜根譚の方が、最初は読んでいて楽しかった。

  • そうこうしているうちに、朝ノートで抽出した課題を専門的に検討するアイデアノートには、自分がこれはと思った本の知識が集まった。これ以上読んでも混乱するだけで、エッセンスは揃ったと感じるところまで来た。

  • 一例を示すと子どもの教育に関することだ。子どものステージに合わせて様々な著書を読んだが、結局わかったことは、本なんか読んでないで子どもと時を過ごせということだ。つまり、子どもを見ることが優先であって、教育に関する本を読むのは子どもが寝てからか、一緒にいない時でいい。本を読んだ知識で子どもと接しても、色々と浅いので、子どもからすれば急にこんなこと言い出して何があったのか?くらいしか思わないだろう。

  • つまり、教育にはそれを語るに必要な深さが必要で、それは子どもをどのくらいの深度で見てきたのかが問われてしまう。難関大学に入れようが、一流スポーツ選手の育て方を真似しようが、脳科学に基づいた教育を施そうが、モンテッソーリだろうが、外から持ってきた教育法を私は悉く活かせなかった。なぜならそれを実践する実力が私になく、私自身が教育に対して徹底的に浅いのだ。継続ができないし、本に書いてある一辺倒のやり方しかできず、子どもに合わせて調整ができない。

  • じぶんの実力と置かれた環境を考え、子どもの特性を見て、どの程度の環境をいつまで準備してやれるのか?子どもに限界を伝える必要はないが、親は現実を冷徹に見つめる。そうしないと、その子のことも、じぶんのことも、これから起こる得るだろうこともはっきりせず、なにを求めてなにをしているのかに確信が持てない。それでは努力の方向が絞れず、体験が深みへと向かっていかない。

  • アイデアノートの教育を例として挙げたが、他のアイデアノートも辿り着く場所は似ている。つまり、著書のエッセンスを集めたが、「読書について」や本多静六氏の著書でもあるように、「自分自身で考え抜いた知識は他者の知識に勝る」や、「自分の置かれた状況で考え直す」ということだ。これが深みにつながる。そうなのだが、そのレベルに私の実力が至るまでには、このような乱読による他者の模倣の限界を知り得るようにならないと、実力不足でこの言葉の意味がわからない。自分よりも優れた人間の言うことだから正しい、かどうかを自分で確認することが肝要だが、それをしなかった。エッセンスのパズル合わせで解決策が出ると思っていた。ことさら対人間になるとこれがうまくいかない。

  • 結果的に教育のアイデアノートの成果は無かったと思う、余計なことをしただけだったと思う。それよりも習い事の送迎だったり、食事を作ったり、テストの点数について相談したりだとか自分にとってのあたりまえを継続する方が我が子の教育に対するアイデアが浮かびやすい。これは将来に向けてあれやこれやというのではなく、子どもの代わりに子どもが感じたことを言語化してやり、子どもが感じたことを世界に発信する手助けだ。そうやってごまかしの効かない気持ちが現れた時、自我が確認され、自分で道を見つけて進んでいくように思う。

  • この気づきを得る中で、いくら考えても解決しない課題があるということが見えてきた。一旦教育のアイデアノートに整理したが、また朝ノートに戻ってきた。課題の設定からやり直しするのが相当という気持ちになったからだ。それは教育の対象を自分を含めた人間に拡大することであり、ただそれは人間意識の根本理解という果てしないお題であった。

アイデアノート

 

  • 問題解決を加速するのは良いアイデアだと思っている私は、朝ノートにでてきた課題に対して良いアイデアがないかと試行錯誤していた。

  • ここで特に参考となったのは、外山滋比古氏の「思考の整理学」とジェームス・W・ヤングの「アイデアの作り方」であった。内容は似通っているが、特に時間をかけて寝かせるという点では共通だろう。私の朝ノートから概略を示すと、

  • 「思考の整理学」では、ノートが3種類。日付順の箇条書き、そこから一部を抽出し、1テーマ半ページの一つ上のノート。さらに1テーマに見開き1ページを使用するメタノートである。これを施行したが、いかんせん上手くいかなかったのは、ノートを変えるという行為だ。著者の主張は、ノートを変えることで土壌を変えて、アイデアが育まれることを促進することだと理解しているが、私にとっては煩雑で、同じノートに何度も同じことを考え直していくほうが性に合っていた。しかし、高級なノートを使う、、という点に合意し、これ以降同じサイズの高級なノートを使い始めている。

  • 「アイデアの作り方」では、情報を徹底的に集めて、頭の中でパズルピースを組み合わせ、思考をやめたくなるくらい考え抜く。そして、リラックスしているときにフッとアイデアが下りてくる、、ということだと理解した。方法としては合意でき、朝ノートに取り入れることにした。

  • こうして、アイデアの作成に関わる私にとっての2大著書を味方にアイデアの作成を朝ノートに記述するようになった。そこで困るようになったのが、検索とテーマ性である。

  • これまで朝ノートを記述してきたが、検索機能がなく見返すのが手間である。また、アイデアを出すときはテーマが決まっているのでこれが朝ノートの内容と異なってしまうと、勝手が悪い。

  • ここで、いままで情報はひとつのノートに集めるという主義を変える必要に迫られた。これも朝ノートの変質と思っていて、朝ノートを繰り返すことによって抽出された、特定のテーマについては書く場所を変える、、ということが適しているようだ。これは独立したテーマの抽出であり、思考の整理学にある上位のノートと似たような対応だが、書く場所でテーマが限定されており、朝ノート自体には上位ノートを用いていない点で異なる。

  • 大抵のテーマは朝ノートで対処できる。たとえば、長い休みの計画作成や高額な商品を購入する際の比較検討などだ。しかし、何度も考え直す必要があるテーマについては朝ノートでやりつづけると、記述が散乱する。特に、将来計画、特許、英語の勉強、子どもの教育費の捻出計画などだ。これらは個別に検討する場所が必要である。

  • 朝ノートの役割は、このように何度も考え直す必要があるテーマを抽出することで、個別のテーマを進める上においては、朝ノートは適さない。朝ノートが上位で、個別のテーマは下位に属しており、これらにはノートを使用するといった限定はしない。

  • 具体的には、将来計画は何度も書き直す必要があるためGoodNote5に見開きで書く。特許はエクセルにフォーマットを用いて書く。英語の勉強は別ノート。教育費はGoogle Driveに保存したエクセルで検討する、、などだ。

  • こうしてみると、朝ノートから抽出された少し大きめの課題について整理されたし、それぞれのテーマにおいて個別の場所をつくることで、アイデアの作成に集中できるようだ。わたしにとってはテーマが絞られたそれぞれの書く場所がアイデアノートということになる(一部はノートではないが、、)。

  • それぞれのテーマのなかに課題があり、アイデアが記述されている。ここをみればすべてまとまっているという安心感があり、ここちよい。

メモをとる

 

  • 上司の話を聞くときにはメモをとりながら聞けとか、メモをとりつづけて人生が変わったとか、はたまた話は手帳にまで及び、取ったメモを手帳に貼り付けたり、Youtubeでは私のメモ術・手帳術などといったような動画もあったりして、よく視聴したりした。

  • 結局のところ、メモの取り方など千差万別で十人十色、自分に適したやりかたでやればいいと思うのだが、これがいかんせん難しい。やはり、朝ノートと同じでメモの取り方も変質していくのだ。

  • こうなってくると、なんのためにメモをとるのか。それをどのように溜めこんで、生かせばいいのかという小難しい話になっている。かくいう私も、朝ノートの将来計画の作成に移った際には細かい自分の意識の変化や、特殊な感情が芽生えたときにはメモに残したいと思っていた(残さず朝ノートに記述したいという意味)。

  • ふつうのメモの使い方は、忘れないようにするためだと思うのだが、仕事や細々としたTodoにおいては書くよりもさっさとやってしまった方が良い。一方で、やや複雑なタスク。タスク同士が紐づいて、その全体管理を任された際にはタスクの相関と日付だけ書いて、どこか一か所にまとめて残しておけばよい。これは立派なメモである。

  • しかし、これが朝ノート向けとなると話が変わる。そもそも、休日の朝に定期的に朝ノートを書いている。すると、平日に思いついた朝ノートに書くべき内容が漏れる可能性がある。これではいけないと思って、メモを残したいと思うが朝ノートは家に置きっぱなしで、持ち歩くにもB5サイズで大きすぎる。ポストイットを持ち歩いて、それにメモを残し休日に朝ノートに貼る案は、手間がありすぎていけない。そのため、平日はケータイのメモ機能を使用し、休日に朝ノートにそれを移植する方法をとった。

  • 一見、うまくいったかのように思えるが、これは気持ちの問題かもしれないが、朝ノートのクオリティが落ちた。なぜなら、朝ノートを始める際にはその日の日付を書くのだが、メモ帳に書いた内容の移植という作業が入るので、その日よりも前の日付のメモの内容が朝ノートの先頭にくることになる。つまり、せっかく新鮮な気持ちで朝ノートをやろうと思っているのに、頭と気持ちが平日のメモの内容に引っ張られるのだ。つまり、今の気持ちを書きたいのに、平日のメモを書いた時の気持ちを思い出さねばならない。これが非常に邪魔であり、快適ではないし、なにより不必要に思えた。
  • しかし、仕事のやりかたと朝ノートの書き方を変えられないわたしはこれを数か月続けていて、なんだかつまらない朝ノートの時間を過ごしていたようだ。

  • 結局のところ、朝ノートに関してはなんでもかんでもメモを残そうとする姿勢が良くない。重要なことなら、平日に思いつこうが休日の朝ノートに書ける。精神が勝手に事あるごとにリマインドしてくれるので、記憶していられる、、ということにした。これは、平日の仕事のやりかたである、もれなくTodoを書く、それらには期限を書くという基本と相反する。つまり、私の主義に反する、、というくらいの気持ちであった。これも最初は気持ちが悪かったが、いかんせん朝ノートの質の低下には耐えられなかった。

  • 朝ノートは休日の朝限定にする。メモはよほど強烈な印象がなければ残さない。なぜならじぶんの意識へはゆっくりじっくり下りていくものであって、なかなかすぐに芯に刺さり、記憶に残る出来事や心象は日常生活からは生まれない、、と思うことにした。つまり、完璧にやることを諦めた、、ということになるが、なぜかこのほうが気分が良く、解放された気持ちになる。このほうがよい。

優先度をつける

  • やらなきゃな、思うことを書き出したら優先度をつけて高い順に処理するのは効率の面では有効だが、これを休日の朝ノートでやろうとすると弊害が出ることがある。優先度の軸に悩むのだ。

  • そもそも仕事続きの土曜日の頭でこれをやろうとすると、どうしても似たような感覚で決めてしまう。つまりは納期が短い順、根本解決が見込める順、緊急で重要な順などだが、そこには自由闊達な精神は存在せず機械的な処理が行われる。

  • 休日朝一番の清々しい朝にこれではいけない。もっとじぶんを解き放って自由に思考し、行動するべきだと思うのだが、そう反省するのみで朝ノートの書き方が普段の仕事のtodo listに偏ってしまうのは致し方ないのかもしれない。

  • こうなるともはや朝ノートはある意味トレーニングで、書いては消したり、書いたtodolistをみてげんなりしたり、挙句の果てには書きっぱなしで実行しないことが常となったりと、もはやメチャクチャになってくる。しかしこれこそが、土壌を耕すという行為に近かったと感じる。

  • やることリストに精神が反発しているようだ。やらなきゃいけないこともその優先度も朝ノートで把握できるようになった。それがなんだと。おもしろくないだろうと。物事を効率的に進められる、それ自体が全てではないと言ってくる。todolistの書き出しとその優先度付けを一年近く行ってくると、もはや紙はメモで、そこまで労せず、慣れて簡単にできるようになる。それをいつまで続けるのだと言ってくる。

  • 視点が先を見据えるようになる。これから30代を本格的に迎え、このままでいいのかと疑問と焦りが湧いてくる。すると、やるべきことを書き出すtodolistが、少し先を見据えた将来計画に変貌したがっているようだ。

  • この先自分がどうあるべきかとどうなりたいかの整理が始まった。やるべきことではなく、やりたいことを書くようになり、ありたい姿を書くようになった。毎週毎週、朝ノートに似たようなことを書くという現象が続き、どうやらこれがじぶんの本質的な興味だと気づくようになった。

  • 具体的には、これまであまり他人に誇れるようなステータスがなかったので私は何か欲しいと思っていたようだ。そこで、じぶんの置かれた状況と力量からぎりいけるんじゃないかということで、検討を重ねた結果、英検一級を目指すことにした。同時に工学博士も取得したいと思っていた。

  • 朝ノートの変質で言えば、将来計画にじぶんの視点が移った際に、ゴリゴリの海外技術者とガンガンにやり合うじぶんの姿をイメージしたものが多かった。理路整然と相手を追い詰めて自分の欲しい結論に合意させる、こんなシーンがよくあって、一方会食では穏やかに団欒しているシーンもよく浮かんだ。これは文章ではなく、下手すぎて他人には見せられないような図、絵となっていた。

  • 実際のところこのままでも良いのだが、何かしら自身の根拠が欲しいという微かな気持ちがあることを、朝ノートの将来計画の繰り返しの書き出しで気づくようになった。英語資格で登りつめたいという気持ちと技術者としての看板を持たねばという気持ちが醸成していったようだ。

  • ノートには、英検一級を目指してみる、と書いてある。最初はそこまで本気ではなかったようだ。工学博士もチャンスがあったら、、と書いてある。書き初めはこうだったのだが、いつのまにか日付や計画や追加され、日を追う毎に具体的な計画となっていった。こうなると自分はすでにやる気で、todolistの内容はこれらを取得するために細かい学習計画へと変貌していった。

 

2025年5月4日日曜日

計画を立てる vs 計画は立てない

  • 社会人は納期に厳しく、いつまでになにをだれがやるかが重要で、新しい仕事が出てきた際にはこれらがはっきりしておらず、担当者の感覚で進めることがある。
  • これではいかんと言って、管理職は計画の見える化を進めるわけだが、うまくいかないことがある。計画を見える化すると、やる側にとっては急に窮屈な気持ちが出るのだ。
  • これも当然、仕事の納期とそれまでにやることを時間単位で決められ計画に落とし込まれては、ただやるだけの状態になってしまう。作業的な仕事はこれが有効だが、創造的な仕事が含まれる場合、逆に良くない。

  • このように、休日の予定を仕事と同じように見える化し、細かいスケジュールを立てることに満足を覚える人もいる。これは人数が多いほど有効で、ある程度の規律がないと大人数を効果的に動かすことはできない。
  • また、子どもの学習計画も見える化する場合もある。これはやることの明確化のため、学習する本人の気持ちは置いてけぼりだ。学習効率という面ではもう一歩の検討が必要になる。

  • このように考えると、一人で気ままにやるときは計画を立てず、仕事や多人数での行動、長期間の行動に求められる成果に対しては見える化をするのがよさそうだが、同時に自分も含めて実行する人の気持ちも観察せねばならない。


  • さて、朝ノートでのこの経験をうつしてみると、ノートの書き始めはなぜかTodolistを書いて、その日のうちにやるべきことを書き出していた。

  • ではやっていくかと進めていくわけだが、どうにも気持ちが乗らない時がある。やらなければならないが、やりたくないのだ。これはどうしたことか?まじめな私はTodolistを書いたら、その日のうちに終わらせるのが朝ノートの役割だと思っていた。

  • すると、だんだん仕事も朝ノートも同じような感じになってくる。窮屈な感じがするのだ。正直、休みの日にもやることを決めてそれをこなしていくなんて、ばかばかしい。ということに気づくのに散々嫌になった挙句の3か月以上かかった。

  • そして、この段階での朝ノートがどのような質的変化をしたかというと、朝に書いたTodolistをその日のうちにやりきらなくても良いものを決めた。やってもやらなくてもよいということにした。

  • するとどうだろう、やらなくてもよいと決めたものを先延ばしにして、次の休日の朝ノートにコピーして再検討するようにした。先週はやらなくてはと思ったことが、やっぱりどうでもいいやというものと、なぜか集中して実行できるものが出てきた。

  • 筋トレが良い例だ。仕事で土曜日の朝に疲れを感じていたが、筋トレをTodolistに書いていた。その日のうちに終わらせなければならないが、これを先延ばしにした。正直、自分を大切にしているようで瞬間的には気分がよかった。
  • 次の土曜日、朝ノートを開くと一番上に筋トレと書いてあった。なぜか、やる気がしていつもより筋肉の部位に集中して筋トレしたし、なぜか筋トレ前にウォームアップなどもしていた。しっかり汗をかいて、気持ちが回復した。やらなきゃという焦りも解消した。
  • 予定を決めてこなすということを休日に及んでまでやるのではなく、なんとなくやりたくない、今日は気持ちが乗らないという微細な感覚に注意を払えると朝ノートの質的変化とそれに伴う行動の変化につながると思う。

 

2025年5月3日土曜日

朝ノートを15年間続けたらこうなった

 

  • 事の発端は、岡田斗司夫氏の著書「あなたを天才にするスマートノート」。軽い気持ちで始めた自分用のノートの作成だが、かれこれ15年以上継続し立派な習慣の一部となった。
  • 本書以外にも、朝起きてノートを記述する効果を謳う書物やYoutubeが散見されると感じているが、ここでは私個人がどういった質的な変化を経験したかを記述する。

  • 私の属性は40代の一般男性だが15年ノート記述を継続したという点では稀なケースであろうし、これから朝ノート的なものを始めようとしている人には大いに参考になると期待する。
  • また現在朝ノートを継続している人にも参考になるだろう。俗にいうぶつかりやすい壁は「何を書いていいかわからない」と「途中から書けなくなった」だと思うが、これについてなんでもいいから書きなさいとか、頭に浮かんだことを書きなさいとか、書けないときは書かなくていいとかいう意見を見たことがある。
  • このような中、私はじぶんに正直になって面白くなりそうと思う書き方に変えていってほしいと言いたい。

  • ノート遍歴をまとめると、下記のようになる。


  • スマートノート(岡田斗司夫氏の方法)2009年 B5ノート 完コピだがつまらなくなって1か月程度しか続かず
  • Todoリストの作成 2009-2010年 B5ノート いわゆるやるべきことを書き出す、今で言う0秒思考に近い
  • Todolistの優先度付け 2010年 B5ノート やるべきことの優先順位をつける、今で言うイシューからはじめよに近い
  • 将来計画、メモ 2011-2012年 A4ルーズリーフ、B6ノート(メモ帳) やるべきことの目が目先のTodoから自分の人生や将来に移った
  • アイデアノート 2013年 B5ノート(高級ノートに変更)特に外山滋比古氏の「思考の整理学」やジェームス・W・ヤングの「アイデアの作り方」に感銘を受けるが、結局ノートは1種となった
  • 文献のまとめ 2013年~2016年 B5ノート(要約をメモアプリにも保存)興味がある本のエッセンスをまとめて朝ノートで融合した
  • +英検1級合格のためのノート 別冊  2014-2021年
  • 朝ノート 2016~現在 B5ノート
  • +工学博士取得のためのノート 別冊 2019-2022年

  • このとおり、朝ノートと一口にいっても同じ書き方では続かず、飽きてしまってどうしようもない。つまり、上記は朝ノートの質的な変化の概略も示している。ノートのサイズやペンや見開きページの書き初めの場所も実際のところ変わってきている。

  • 質的な変化についてまとめると、
  • 書き始め:目先のやることの可視化や優先度付けが可能に
  • 中期:視点がじぶんの内側へ、やりたいことの明確化と他人の経験の融合による人生の質の深化を目指すように
  • 最近:目標達成後の外向きの静かな確信と落ち着きの会得。言葉や感覚以前のリアリティへの興味と書くことに対する質的変化

  • 朝ノートを介したこのようなノートの質的な変化は誰にでも起きている。
  • やるべきことを整理して片付けられるようになると、だんだんとそれに飽きてきて、自己の視点が外側から内側に向いてくることも人間意識としては当然と思われる。
  • 時期に目を移せばこれは2009年から始まったため、自己啓発本が流行り、社会の利便性がさらに発展し、Youtubeで多くの初歩的なことが学習可能で、良くいえば自己成長という面で自己啓発ブームを迎えた時期であったと思う。
  • つまりは書き方を変える際の参考になるアイデアに恵まれた。色々と真似をしたが、どうしても数ヶ月で飽きてしまい、書いている自分に違和感が出てくる。

  • 結局書き方に合わせて書くのではなく、自分の気分に合わせた書き方をする方が自然であった。ただ、これには落ち着いた心境と環境が必要なため、やらなければならないことが多い人には向かないし、そちらを先に対処する方が理にかなっていると思う。todo listの優先づけに慣れてくるとだいぶ落ち着いてくる。

  • 現在は書くのに思考を使わないことが楽しい。湧き上がる思考やイメージに対する体の感覚を何とか言語化している。つまり、論理的な文章ではなく言葉の羅列。詩的表現。イメージ毎にささいな感覚が体に響くので、それを言葉で代替する。つまりは書いた言葉が体に響く。言葉ごとに独特な感覚が生じていることに気づく。このような書き方に至っているようだ。