2022年11月26日土曜日

やっぱりとりあえず書いてみる

 どうにもアイデアが出ない。行き詰まっている、そしてそれに対する焦りが出てきて、どうしようもなくなってくる。というわけで、自分の感覚的にも上手くいかないことは分かっているのですが、とりあえず、論文を書き始めました。

二件目は英文誌に投稿しますので、英語で書き始めます。イントロに何が課題なのか、なぜこれが重要なのか、ということを書いていき、それに対するアプローチ方法と得られた結果を記載していきます。

次に、シミュレーションの方法、結果、それらを生かして実験を行い、得られた実験結果を記載し、イントロで浮かび上がらせた課題に対して、どのような効果があったのかをずらずらと並べます。

この時、英語のクオリティは無視してます。まずはザックリ全体像を書いてみて、それを通しで読んで、自分がどう思うかが大事なわけです。


さて、書き終わりました。うーん、これはだれでも書けそうな論文だなあ。なんか言いたいことの分かりにくい、どっちつかずの論文だなあ。といった、感想が自分から出てきました。


ですが、論文の骨格は良さそう。ストーリーは、もうすこし、論旨をはっきりさせれば、読めるレベルには到達できそう。しっかし、わかりにくい。。なにがいいたいのか、よくわからない。なにがポイントなのか、文章では書いてるが、根拠を示すデータがわかりにくい。グラフから読み取りにくい。さらに、シミュレーションの説明が絶望的。。


なんか、問題点だらけなんですけど。。まあわかってたことですけど、まだまだやらなきゃいけないことがたくさんありそうです。それを論文ベースにとりあえず書き直した時、課題が見えてきました。とにかく、わかりにくい。根拠があいまいだから、(データが根拠を示していない)説明もあいまい。納得できない、論理関係になっていない。文章は、論理関係になっている!と書いてあるが、根拠があいまいでよくわからない。


つまり、総じて、なんだかよくわからない論文ということです。ひとつひとつの重要となりそうなパートはわかってきたので、もう一度一から見直しです。。

気づいたことがあります。英語で書き始めると、英語の品質が気になって、文章の読みが甘くなること。表現や時制、英文の書き方に注目してしまって、論理関係を読み取るほうに注意が向きにくくなっています。英文(の表現を)をいくら直しても、論理構造がだめなら、ただ取り繕っているだけです。たしかに英文の表現は重要なのですが、これは論旨が通ってからの話で、真っ当な根拠をデータで示していないのに、これは真っ当なデータなんです!こういったことが明確にわかります!と書いても、「はあ?」となるわけです。


というわけで、英文の校正はとにかくあと回し。少ない文章で、要点を日本語で書いておいて、そのポイントをデータで示してあるかどうかを確認していきました。そう考えると、いきなり英語で書くのもよいですが、論理構造がしっかりできていることが前提で、そこがあいまいなのに、英文で書き始めると、英語を直しているのか、論文の内容を直しているのかわからなくなってきます。大事なのは、内容のほうです。ただ、すべて日本語で書いてから英文で書きだすと、文章の順番が変わりますので、頑張って書いた日本語をそのまま英文にするわけにはいきません。つまり、二度手間。日本語で書いておくのは、骨格の部分の数行のみで、あとは英文を説明文として、英語の順番で肉付けしていきます。



2022年11月22日火曜日

パンチが弱い

 一本目の論文の査読を通して感じたことがあります。それは、投稿する前に「これはイケる」という実感をもつことが大事ということです。


査読の一回目の結果も、先生方も言っていましたが、ポジティブなことが書いているということでした。つまり、論文の内容が良かった(良さそう)、ということです。


そして、博士課程修了要件の2件目の論文投稿にも、その内容が求められるわけです。だから、じぶんでもそれなりの内容で勝負しなければならないのですが、


いくら考えても、パンチが弱い。。


あれですよ、一本目の論文は博士課程に入学する前からうっすら考えとしてはあったのですよ。この考え方なら新しいんじゃね?と思っていたわけです。


しかし、二本目の論文となると、すでにネタ枯れ。パンチがない。パンチが無いってえと、内容が薄い、新しくない、ということ。まあ、実際そうなんですけど、一見そういうところから、粘って新規性を出すのが研究の醍醐味。その醍醐味が行き詰っているのを感じているのですね。


ああー、どうしよう。このままこの研究を進めても、論文の形にならないかもしれない。。なんというか、当たり前というか、新しくないというか。。何が言いたいのか分からないというか。。


とりあえず一件目が通ったので、考える時間はあるのですが、あれなんですよ、英文誌に投稿しようと思っているのですよ。英文誌の査読に耐えうる英文を書かなければならないので、そこの時間を考えると、さっさと草案を作り上げないと、文章の推敲・校正に時間がかかることが見込まれるのですね。


うーむ、一旦日本語で書きだすか、、それともいきなり英語で書くか。。迷う、いずれにせよ、内容が良くなければ意味がない。まずは、内容というか、ストーリーをもっと考えるべきか。。


そうこうして、悶々としているうち、時間はどんどん過ぎていきます。正直、研究を進める手法を新しくするわけにはいかないのですね。一本目同様に、シミュレーションを行い、理論を検討し、実測で確認を行う。シミュレーションソフトを変えるだとか、またプログラムから学ばなければならない。こんなことやっていたら、卒業に間に合わない。しかし、そんなこと言っていて論文の要件が満たせなければ、論文など書けない。。あああーどうしよう。


同じシミュレーションソフトを使うしかない、ということはシミュレーションの手法を変えなければ、「なんだこいつこのやり方しかできねえのか?」という偏見(そんなことない)と同時に一本目と同じ結果しか出てきません。つまり、別の新しいやり方を学んで、そこから新規性が出せないか、検討するしかありません。


シミュレーションソフトを変えるまではいきませんが、シミュレーションの方法を変えることにしました。少し難しい方法です、異なるシミュレーションソフト間を行き来させて、結果を得るという手法です。これがまた初めてなので、またやり方を勉強しなければならないのですが、またまたシミュレーションが動かない状況に陥るのでした。。


2022年11月19日土曜日

はじめての掲載通知

 一度目の査読の結果、回答文を慎重に作成し、投稿を行いました。


そして、毎度のごとく、かなり待つわけですが、1か月経って結果が届きました。結果は、


軽微な修正を実施すれば掲載可。


これは、、、論文が査読を通ったのか?もしかして、一本目の論文は掲載許可が下りたのか?と完全に日本語が読めない人になっているのですが、それもそのはず、私は疑心暗鬼です。なぜなら今まで一本も論文を学術雑誌に通したことがないからです。


2回目の査読結果を参照します。どうやら致命的だった内容に関する修正はOKとなった模様。良かった。しかし、細かいところで修正が必要で、査読結果の中で指摘を受けている状況。確かに、論文の本筋には影響が少ない、エディトリアル(編集的)な修正を指摘されています。


これなら、修正・回答は簡単。指摘された通りに修正することも可能です。しかし、指摘されたから修正する、という単純なことではなく、「なぜ指摘されたのか、考えながらきちんとした修正をしてください」、と先生方からコメントを頂きましたので、その通りに行いました。一回目の回答文を作成するときとは打って変わって、だいぶ楽な気持ちです。なぜなら指摘された内容が、致命的ではないからです。


この修正を行えば、本当に掲載されるのか?「やっぱり返送です」とかないのか?とヤキモキしている状態なのですが、メールの文面に「掲載可」と書いてあるので、信じるしかありません。


2回目の修正は、ほとんど時間がかからず、確認を含めて1週間程度で再投稿を実施。その後2週間程度で、来ましたよ。


「掲載することが決まりました。」


っっっっっしゃあああああああああああ!!!!!!!!!!!


やったぜ、通したぜ。研究ネタを一から自分で考えて、最初はシミュレーションすらできなったんですけど、色んな人に助けてもらって、技能を修得して、論文を書いてはケチョンケチョンにされ、何度も何度も考え直しては、論文を修正して、土日朝5時からノートにアイデアを書きなぐっては、それをまた否定されるという繰り返し。この繰り返しを1年くらいやって、、やりましたよ。


学術雑誌への掲載許可通知。


いや、これはうれしい。本当にうれしい。やったぜ感がハンパない。誰かの研究引き継いでいるわけではないんですよ。このために会社で研究開発をやってないんですよ。与えられた制約条件の中で、どうにか試行錯誤した結果、論文の形になって、それがどうにか認められたということです。いやはや、うれしい。そして安堵。どうにか博士課程の2年目、3年博士課程で言うとちょうど真ん中くらいの時期に一本目の掲載通知が来ました。いやー良かった良かった。


そして、掲載許可が届いた後は、著者校生を行い、数か月後にめでたく公表となるのでした。ネットで自分の論文が簡単に見られるというのは、気持ちがいいものです。


しかし、わたしは気づいていなかった。二本目の論文のネタをさっさと考えなければならないということに。。。なぜなら、二本目の論文の掲載許可通知は卒業の3か月前までに獲得しておかなければ、大学へ学位申請ができないからです。。残り、あと15か月強。一本目の論文は入学前から考えていたので、実質20か月かかっているのです。。そしてトドメは、、


二件目の論文は英文誌に投稿しましょう。


という先生方のありがたきお言葉。あれ?これやばいんじゃね?





2022年11月18日金曜日

査読結果が届いた

査読結果が届かない! 記事を書いた翌週に査読結果が届きました。

さて、今度はどんな指摘を受けているのかなあとおもむろに査読結果を開きます。すると、

「大変興味深い事柄を含みます」

おっと、なんだこのポジティブなメッセージは!と若干喜んだのもつかの間

「論文の定義や説明が不明瞭な箇所が多く、論文としての有用性を判断できません」

うわー、そうですか。修正回数は10回以上、先生方にも何度も査読をしていただいたのですが、論文の説明が不明瞭で、判定できないようです。

そして、査読者の指摘事項をざっと眺めると、その数20個以上。これを見た瞬間、回答が大変そうだ。。と思いました。

一旦、冷静に査読者からの指摘を受け止めるために、2,3日間間をおいて、査読者からの指摘を解読していくと、ものすごく、きちんと論文を読んでくれていることが分かります。査読のレベルが非常に高い。だからゆえに、言葉の定義や説明が不明瞭だと、根拠を持って指摘をしてくれているわけです。

査読者からの指摘は至極真っ当で、たしかに、説明文が不明瞭。あいまい。不十分だと思い知らされました。。論文投稿時は自分のレベルの限界点で、問題ない、と思って投稿していますので、これはこれでショックなのですが、その上からさらに指摘を受けると、査読者のレベルの高さに感心、脱帽の状態です。自分が自信を持って書いた文章が、まだまだ伝わらない、不明瞭なレベルなのだと。この文章とこの文章の論理が不明瞭、この言葉の説明がなく、意味が理解できない。なぜこのように考えたのかが分からない、などなど。掲載を前提とした指摘が多いと、担当の先生方はおっしゃっておりました。

確かに、二人の査読者から、指摘の冒頭に、Mandanory change(修正必須)だが、内容は興味深い内容を含むと答えていただきました。この点については、担当の先生方も、ポジティブに受け止めて良い、とコメントをいただきました。

さて、とはいってもまだ掲載が決まったわけでもなく、この後の査読コメントへの回答文の良し悪しで、掲載可否が決まります。回答文など書いたことありません。一つ一つ丁寧に、査読者のコメントを読み、その回答文を作成し、論文を修正していきます。この作業がまた、非常に神経を使う作業で、コメントを読み誤ったら見当はずれの答えをしてしまい、もう一度、やりとりを行うことになるか、はたまた、「リジェクト(返送)」となってしまうかもしれません。なぜなら、判定の2回目は、掲載か返送だからです。つまり、回答文は論文を作成した時と同じように、作成しなければなりません。

回答文の作成ですが、1か月かかりました。

まず、わたしなりに回答文を作成し、論文の修正を行うのですが、担当の先生方からは、「この回答は査読者の質問に答えていない」「回答文があいまい、不明瞭。他分野の人でもわかるような丁寧な説明文が必要」とのコメントを受け、何度も回答文を作成し直しました。

なんか、やはり、日本語の運用能力が低いのでしょうね。読み取る力、考えを論理的に書く能力。いずれもいまの自分には足りていないのでしょう。だからこそ、査読者・先生方から「わからない。わからない。」と言われるわけです。これがゆえに致命的、逆の見方をすれば、この論文を書く力をつけるのが、いまの自分に足りない能力なのだということです。

この回答文のやりとりをしている最中ですが、なぜか、非常にうれしくなりました。なぜかというと、ほぼ一人っきりで練り上げた論文のアイデアを、先生方と一緒に論文の形にし、おそらくこの分野の第一人者の方に、ここまで、細部まで読み込んでいただき、至極真っ当な指摘を受ける。その結果、論文の品質がみるみる上がっていく。先生方とのやりとりで、自分の日本語運用能力が上がっていく、という実感があったからです。これは、博士課程に入って、研究をして、論文を書いて、査読を受けるといったプロセスを踏まないと、感じられない、心の奥からくるほのかなうれしさです。なんかこういうの、前にもあったなあ。

さて、どうにかして回答文を作り上げました。指摘項目が多いため、20ページ以上の回答文です。一つの指摘を一つのページに書いているので、余白は多いです。いったんこれで文句なし。回答文を投稿して、あとは運を天に任せるのみです。


2022年11月12日土曜日

査読結果が届かない

 うーん、こんなに待つんですか?査読結果って?


前回投稿したときは、2週間くらいで査読結果が来たのですが(例のケチョンケチョン)、今回は2か月経っても帰ってこない。。


私が投稿した論文誌の場合、投稿システムから査読状況が分かるのですが、これが全く動かない。査読中。どうやら二名で査読いただいているようで、片方の方は査読完了なのですが(2週間くらい)、もう一方の方が完了していない。うーん。これは忘れられているのか?それとも、またケチョンケチョンに書かれているのか?


査読を待っている間は、本件の研究に対しては何も進まず、2件目の論文に向けていろいろと考えているのですが、この1件目が上手くいかなかったら2件目など意味がないのですよ。つまり、いくら2件目に集中したいと思っても、1件目がだめだったら再度この案件に戻るわけです。これは非常なストレス、2件目に集中すると、もう1件目は終わったような気になってしまいますしね。


しかし、できることは待つことのみ。そして祈るのみ。腹をくくって、2件目をぼんやりと考え始めることしかできません。結構、この期間ってやきもきしますね。


そうそう、博士課程とはいっても単位取得が修了要件に含まれています。必修授業と選択授業。必修授業は、授業に出席してレポートを提出したり、ウェブで講義を受けて、これまたレポートを提出するといった形で特に問題はありませんでした。残念ながら、内容に興味はありませんでしたが。。


選択授業ですが、これは基本的に先生と一対一でした。まさか、研究の第一線にいる方の時間を頂戴して、授業をしていただけるとは思っていなかったので、何と贅沢な時間だと思いましたが、これはこれで精神的にはストレスで、とにかく気が抜けない。講義をしてもらって、あとでレポートを出すといった形ではなく、じぶんはどのような研究をやっているのか?どのようなアプローチで行っているのか?などといった、博士課程をサポートしていただけるような内容でした。

というわけで、もうこれも、ツッコミ満載なわけですね、先生方からしたら。え?なんでこうなるの?それって意味あるの?従来のやり方となにが違うの?何がどう良くなったの?などなど、じぶんの考えが如何に浅はかだったのかと思い知らされるのと同時に、やばい、いまのレベルでは博士課程は修了できない、という危機感に苛まれるわけです。はい、ストレス。


入学して一年目に卒業に必要な単位を取得することを目標としていまして、結果的にそれは達成できたのですが、先生方と一対一で議論をする。しかも担当教授以外の他分野の先生方と、というのはやはり大変で、全然知らない人にも自分の研究内容を伝えるという技能が必要だということが分かりました。これ自体は、論文を書くことにも通じますが、いやはやそういうことですよ、そうゆう技能がないってことですよ。専門用語出せないし、何が?なぜ?どれくらい?という質問にだれでもわかる言葉で単刀直入に回答できなければ、じぶんでじぶんの研究わかってねーなコイツと思われるわけです。はい、わかってませんでしたよ、考えが浅かったですよ。


そういうわけで、論文というか、研究を進めるうえでその内容を他人に説明するということが如何に難しいか、他人が持っている前提知識まで、じぶんの考えをかみ砕かないと伝わらないので、分からないのはお前がわるい!とは言えないわけです。分からない人にもある程度伝わるように、説明をする。このためには、やはり、考えを鈍化させて、本質だけを提示しなければならないと思う今日この頃でした。

2022年11月11日金曜日

再トライ

 一本目の論文がケチョンケチョンにやられたところで、査読結果をもとにデータや論文の内容を見直して、同様の内容で別の論文誌への投稿を目指します。


前回、英語で書いたのですが、今回は日本語で行きます。日本語でもだめなのに、英語ではさらにだめなのは目に見えているので、まずは実績を作るということと、とにかく一本通さないと、査読に耐えうる論文とはどういうものなのかが、肌感覚でわからないのです。


さて、前回の失敗は下記の通り

  • 論文の売りとなるグラフが理解不能
  • 論旨につっこみどころが多すぎる(論旨の穴)
  • 英語がダメ

今回は「英語がダメ」がないので、とにかく内容に集中です。一文一分丁寧に説明し、グラフの意味は文中に書く。何が重要か書く。再現可能なように、シミュレーションと実験条件を書く。

そして、とにかく何回も書き直したのが、一ページ目の緒言です。
何が課題なのか、なぜこれが重要なのか、なぜこれまで解決されてこなかったのか、それに対してどのようなアプローチをとったのか、その結果、どのような結果(効果)が得られたのか。これらの質問に答えられるように、文章を並べました。

論文中の内容を書き直すと、この緒言の部分が変わってきます。特に、数字関連。結果は、どの程度改善したのかを数値で示すため、内容を精査して、結果が変わればこの数値も変わってきます。まあ、なるべくよく見せて、こんなに改善したんだ!という意気込みで書いていきます。

すると、緒言を読むだけで、論文が何を言いたいのかが分かるようになりました。詳細は、後ろのページを見てね、ということです。専門家でなければ、一旦緒言の課題と解決のアプローチ、結果だけを見て、その論文の価値を判断しようとするわけです。これは読んだ方がいいな、と思ってもらえたらその後ろのページを読んで、前提条件を確認しに来るわけです。前提条件が、自分の持つ課題と近い場合、その人の持つ課題解決の糸口になるだろうとこんなわけですね。

できるだけたくさんの人に読んでもらいたい!という気持ちはあるのですが、論文を書こうとなると、研究対象がかなり狭くなってしまうのですね。この分野全体に通用する効果的な手法!とまでなると、なかなかお目にかかれませんし、ものすごい業績になるのだと思います。私の場合は、対象範囲を狭めて、一点の課題に集中して新規性と有用性を出していますので、論文としてはOKになるのでしょうが、価値で言うと、あまりないのかもしれません。。

とはいっても、なにはともあれ査読を通す!これだけです。論文の価値は読者が決めるので、そんなこと気にしてたらいつまでたっても論文など書けません。査読を通す、論文構成力を身につけたいのです。

さて、気持ちはこんなところですが、博士課程に入学し、約14か月経過。ようやく一本目の論文の2回目の投稿にこぎつけました。今回は、投稿前に先生方に何度も査読をしてもらい、なんとか投稿OKをもらい、ある程度の自信を持って、論文投稿を行うことができました。さあ、どうなることやら。。。

2022年11月5日土曜日

すごく反省する

 人生初めての論文投稿が大失敗に終わったいま、やるべきことは論文のブラッシュアップ、ただこれだけです。


論文のブラッシュアップってなにをやりゃいいんだい!と咄嗟に思うわけですが、はっきりいって見たくもない、ケチョンケチョンに書かれた査読結果を冷静に見直して、自分の論文に足りないところを補充していくしかありません。メンタルやられまっせ!


そうはいっても、全部の指摘に回答するように研究を進めたり、論文を手直しするというわけではありません。だって、やりきれませんもの。適切に反論できるようなバックデータを準備して、「このやり方で問題ありません!」というのを一つ一つ確認していくしかありません。ああ、大変だ。


論文を書いていて、どうやらタイトルはOKという感触を得たのですが、どうやら論文の売りとなりデータが足りない模様。もしくは、明確でない模様。これをしっかり、ポイントを定めて、データを取って、誰にでもわかるように書かなければいかん!というふうに直感的に思ったわけです。


論文の売りとなるグラフめがけて、論旨をつないでいくと、そうなると、売りとなるグラフは細心の注意を払って、作成しなければなりません。なんどもなんども、これおかしくないか?と考え直さなければなりません。


初校から比べると、この売りとなるグラフ、全く見違えるようになりました。誰が見ても、これは使えるぞ!新しいぞ!という感想が得られるはずです。そして、このグラフが正しいんだ!という論旨を前段の3ページくらいで、くどくどと書いているわけです。ここに大きな論旨の穴があれば、「このグラフ噓じゃね?」となるわけです。読み意味と書く価値もありません。ただ、100%絶対正しいんだ!というのは、例の反証可能性の観点からいって、そんなことはありませんが、ただ書いていることは絶対正しくなければなりません。なぜなら再現性がとれず、他の方はこの論文に書いてあることと同じことをすれば、同じ結果が得られなければならないからです。


やっぱり、あれですわー、おもいつきって全然だめですわ。思考の整理学でいう、忘却で、もっともっと思考の観点を上げないと、簡単な突込みにすら全く耐えられない。その突込みが自分よりもレベルの高い査読者であればなおさらです。いや、結局つっこみというか、査読者からのレビューはかならずあるのですが、それが致命的でなければ良いということです。


というわけで、無謀な投稿(その時は完ぺきだった。。)から一夜明け、どんどんと論文のレベルが上がっていくのでした。


2022年11月4日金曜日

査読結果がケチョンケチョン

 入学して一年以内に一本目の論文を投稿するぞ!と息巻いて、どうにか論文らしきものを形作ることはできたのですが、その勢いで投稿したのですね。その時点での自分の力量では、納得のできるレベルで、推敲も数か月行いましたし、一旦もうこれ以上やることはない、というところまでやってからの論文投稿になるのですが、これがまた、


査読でケチョンケチョンに言われた


というのは今思い出しても、苦い思い出です。

とにかく、指摘事項が多い、多すぎる。。

三人のReviewerに見てもらったのですが、一人目はまだいいですよ。「論文のタイトルは耳目を引く」というポジティブなリアクションをいただいて、指摘もまあ納得できる。対応できる内容でした。


しかし、二人目と三人目がひどい。各人20個くらい指摘をくらっている。中には、根本を覆すような指摘や、「英語はネイティブチェックを受けろ」とさらって書かれていますし、「この文が何を言いたいのか、分からない」「最低でも2次元ではなく、3次元でシミュレーションを解け」などなど、これでもか!というほど指摘を入れてきます。それを見て、私の反応は、


あ、これ無理だ。。


と、さっそく査読を通すことを諦めました。反論することが大変なのもさながら、根本的な指摘が多すぎる、、一から考え直さねば、これらの指摘に反論できない。。という至極まっとうな査読プロセスの結果を受けて、自分の考えが如何に浅かったか、思い付きであったか、説明のためのデータや論理が不十分で納得できるものではなかったかを思い知らされることになりました。


一方、感じたのは、しっかりと論文を読んでくれている。という印象です。しかも、文字通り読んでいるという感触が強く、文意の奥にある隠れた真意などというわかりずらいものは、存在すら認められないわけですね。自分なりに、クリアに、主張を先頭に、それをバックアップするデータを順序良く並べるということをやったと思っていたのですが、まだまだ、文章があいまい。データの説明があいまい、そもそも説明がない、などといったボロボロの状態だということを認識させられました。


これ、あれですわ、科学論文を英語で書くという能力は、英語を使う能力とは別と考えたほうが良さそうですわ。確かに英語は結論から話して、順序良く、論理的にというのはあるのですが、科学論文ではさらに明白に、明瞭に説明をするということと、読者にデータを読み取らせてはならないという、「こんなのみりゃ分かるじゃん」などというものは通用しないことが分かりました。これって、論文作成能力が低いから発生する事案で、まだまだ論文の書き方というものがなっちゃいないということです。


当然ですけど、体当たりで論文投稿して、結果が散々であったというのはショックです。何分、これなら大丈夫だろう!と思っているから投稿するわけで、ケチョンケチョンの「あなたの論文は論文ではない」くらいのことを書かれてしまうのですから、そりゃーショックです。


これ、査読結果を受け取ったときにはショックすぎて気が付かなかったのですが、査読の結果は、「返送」ではなく、「査読に対する回答を得て、論文を修正して再度判定」だったのですね。「返送」ではなかった。しかし、返送だと思って諦めてしまいました。。しっかり、返答を読んでいればよかった。。


こうして、入学して一年以内に論文を投稿することはできたのですが、掲載となるわけには到底いかず、この査読結果を生かして論文をさらにブラッシュアップする作業が必要となりました。ブラッシュアップした論文は、別の学会誌に投稿することを前提としています。


この時の経験から学んだことは、自分では限界まで考えたつもりでも、まだまだ力量のある査読者からすれば、書き方も、考えも、浅い。稚拙。つまり、論文作成者の実力が低いということです。これは、投稿前にそれなりの力量を持つ人に査読をしてもらうが必須であるということです。査読は、論文指導の場ではなく、あくまで掲載許可の判定の場なので、ここでアドバイスをもらうことは根本的に誤っています。


つまり、論文を書く能力というものを根本的に身につけなければならないわけですね。論文の書き方的な著書は、ある程度読んで、書き方は理解したつもりでいましたが、いざ、実際査読を通そうとなると、自分一人の考えだけで書いても、あっちゃっちゃーになるということです。それが他分野の人であればなおさら。とにかく、わかりやすく、クリアに、本質を説明する。今自分がやっていることは、細かくて、ぐちゃぐちゃしていますが、これを思考の階段を上がって、広い範囲から説明をしていく。この思考の密度の使い分け、前段は密度を粗く、後段は密度を細かく、ができていないと、読んでいてストレスたまるのでしょうね。


あー、うまくいきませんわ。論文を書くのってこんなに大変なのか、計画通り、予想通りいかないわ。これ、かなりエネルギーと時間を費やさないと、三年間で卒業できないぞ。と、根底的に焦りを抱え、博士課程を突き進むのでした。



2022年11月2日水曜日

とりあえず、論文を書いてみる

 さて、なんとなくですが論文の方向性も決まり、データも集まりだしたので、一旦形にしてみたい。そんな気がしてきたのでまがいなりにも論文を書き始めてみよう!と思い立ってきました。


しかし、返送(リジェクト)をくらうとフォーマット含めて書き直しになりますので、博士課程の遂行の上ではこの上ない大幅なロスになります。ですが、まずは一本書いて、一本査読通れば気持ち的にもだいぶ楽になります、そう、早く一本目を通してしまいたい。


というわけで、書き始めます。投稿する学会誌の投稿要綱を読み、フォーマットをダウンロード。どうやら、論文のページ数の上限よりも、最初の投稿時のページ数上限の方が少ない模様。かなり要点を絞らないと、3枚以内には収まらないぞ。


そして、ざっと書き終えて、見直しをします。当然ですが、論文としては、

  • 新規性
  • 有用性
  • 創造性
を具備していることが重要。新規性は、まえがきで「この点について言及した論文は見当たらない」。有用性は「従来手法と提案手法での改善率を明示」。創造性は、研究手法に対する目新しさかと思いますが、うーんこれはどうだろう。。

上記の通り、ポイントは論文の中に並べることができたのですが、なんというか、、読んでいて、パンチが足りない気が。。確かに、文言上は新規性がある!有用性もある!と主張をしていますが、その根拠となるデータが弱いような。。なんとなく、当たり前のような。。そんな不安が舞い上がってきました。ついでに、読んでいて、分かりにくい気もします。。

というわけで、これじゃやばいじゃんという気しかしません。これで投稿したら一日で返送処理されそう。。やはり論文らしく、パンチのある、採録に値する内容に仕上げなければなりません。そういうわけで、論文をブラッシュアップする段階に入ります。

論文のブラッシュアップですが、期間としては3か月。何度も書き直しては、データを取り直し、グラフを修正し、文言を修正し、、などとつきっきりで3か月です。自分なりにこれならどうにか査読に耐えうるだろう、というレベルにまでどうにか持っていきました。


論文は英語で書いているので、この時は英検1級に受かっていないのですが、書くこと自体には抵抗は無く、単語の選び方とか、英語の順番で書くとか、ある程度は気を回せるレベルです。まあこの後、査読者に「ネイティブチェックを受けてから論文を出せ!」と指摘を受けるわけですが。。

英語が出来るのと、科学論文がきちんとかけるというのは違う筋力が必要なのですね。。分かってはいるのですが、そんなに致命的なミスがあるってこと?難しいね、いつまでたっても英語って。

さて、そうこうして博士課程に入学して約10か月。最初の論文投稿を行うのですが、今でも思い出したくない、あれやこれやのオンパレード。。次回、お楽しみに。。